2006年03月03日

さようなら親父 -31-

担当医は死亡診断書を書く必要があるので、程なくして病室を出ていった。
死亡はその診断書によると

2005年12月17日17時20分

亡骸を前にとるべき行動があった。
関係者に事態を知らせなければならない。
私はまず、妻と子供が待つ実家に連絡した。
「覚悟をしておけ」
と妻には伝えといたので、それほど驚かれなかった。
むしろ待ってましたとばかりに、次の行動を起こす準備をしていたという感じだった。

母は自分の兄弟や、父の友人、実家の近所に連絡をした。
姉は自分の夫の関係者などに連絡を取っていた。
なかなか経験できない光景ではあるが、死体を前にみんな冷静を取り戻し、しておかなければならない行動を各自取っていた。

そのうち姉の夫も来た。
人知れず、涙を流していた。
母の妹には、故人が病院を出て行くときに着替えさせる着物を持ってきてもらうため、
連絡しておいた。
間もなく、やってきて看護師に故人の着替えをお願いした。

揃った親戚関係者は誰からか差し入れられた、おにぎりやサンドイッチを控え室で食べた。
私は、霊柩車の手配のために受付に走り、手続きを取った。
いよいよ、喪主としての仕事が始まったという感じがした。
着替えが済んだら霊柩車は出発だという。

夜の7時半を過ぎた頃だろうか。
着替えが整い、霊柩車の運転手が病室に入ってきた。
いよいよ出発である。
今までお世話になった担当医、看護師の面々が挨拶に訪れる。
父は看護師に対してよく気を遣い、優しくしていたらしく、看護師の女性たちの間でも人気があったらしい。
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2006年02月28日

さようなら親父 -30-

すでに私の場合、『あと2週間の命』と聞かされた時点で、覚悟はできていた。
遅かれ早かれ、このときが来るんだと。

ついにそのときが静かにやって来た。
看護師さんの一人が、静かに言った。
「臨終です。先生をお呼びしますね。」
父はすでに息を引き取っていた。
眠ったように、死んでいった。
もう、戻ってこない。
やはり私は涙が出てこない。
母も、おじも、おばも、姉も泣いている。
でも、父はもう戻ってこない。
72歳の命はそこで終わった。
もう少し生きれたはずなのに、もう少し生きて欲しかったのに。
人の一生はあっけないというのが、頭に浮かんだ。
父の一生は悔いのないものだったろうか?
晩年は入院、手術の連続で不本意な年月だったろう。
旅行や楽しいことがあっても、心のどこかで常に「自分は爆弾を抱えている」という気持ちで、いい気分になれなかっただろう。

戻れるとしたら本人はどの時点まで戻ってみたいだろうか?
人生一度きり。
その最期があっけなかった。
本人だって、死ぬとは思ってもみなかっただろう。
いや、最後の最後まで死ぬとは思っていなかったも知れない。
家族と実兄に見守られて、死んでいったことが救いなのかもしれない。

やがて、5年にわたる間お世話になった担当医が来た。
ドラマで見るような、父の目を指で開き小さなライトを照らして、臨終を確認した。
担当医は言った。
「仙洞田さん、助けることができなくて本当に申し訳ありませんでした。」
私たち家族も、担当医には言いたいことがあるのだが、このときばかりは静かに聞いていた。
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2006年02月15日

さようなら親父 -29-

前の晩私が泊まったときとは違って、苦しそうな表情。「はあ、はあ」とやっとの思いで息をしている様子。
私も交代して参加し、手足をさすってあげた。
やはり手足をさすってあげるだけでも違うのであろう、手足のむくみがなくなっている。
しかし皮膚はすでに冷たくなっていた。
病院からは、明日の朝が峠だというような話らしい。
今後のことも気になった。私が泊まるにしても心細い。明日の朝になれば、もう息を引き取るのだと思うと、一人で見取るには戸惑いがあった。
しかし、母はもうすでに病院に残る覚悟でいた。

1時間ほどみんなでさすっていただろうか。
病院の外は今年の特有の寒さで極寒であったが、病室の中は乾燥して暑かった。
体力を使ったためか、私はかなり汗をかいた。

5時になった。
私は気づいた。
父の息が弱くなってきていると。
看護師さんを呼んだ。
2,3人の看護士さんが来て、父の様子を見守る。
「もう、息がなくなってきてますね」
と絶望的なことを、平気な顔で言う。
もう終わりなんだと実感した。
母、おじ、おば、姉たちは父に声をかける。
「まだまだ、がんばるんだよ!」
「おとうちゃん!」
「あきら(父の名)!」
私も思わず叫んでいた。
「おとうちゃん」
こんな状況ではあったが、ドラマのワンシーンを思い出した。
あまり公言できないが、不思議と悲しみは少なかった。
それよりも、その先に控える大イベントの責任者・喪主としてどうすれば言いかというようなことが不安だった。
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2006年02月14日

さようなら親父 -28-

夕方病院また出かけ再び泊まる覚悟だったので、出かける前にシャワーだけ浴びようと思っていた。
2階では妻が二人の子供を昼寝させようとしている。
一人でテレビを見ながら、横になって軽く眠ろうとしたが、眠いだけで寝付けない。
やはり心の中で父のことが心配だったのだろうか。
2時近くになり、電話が鳴った。
何となく緊張。
このころは、電話の音にいちいち敏感になっていた。
母からだった。
『血圧が落ちてきて、危険な状態になりそう』
とのことだった。
急いで準備した。眠気もふっとぶ。
妻に報告したり、着替えたりしていると、また電話が鳴った。また、緊張。
また母の声。
『元に戻ったから、まだ来なくていい。でもできれば、早めに来て。』

緊張が少しほぐれて、また座り込んだ。
しばらく、テレビを見るともなくつけたままボーっとしていた。
時間は3時近くになろうとしていた。

近所には、母の妹の家がある。
私からしたらおばにあたるが、そのおばが家に入ってきた。
おばのところに、連絡が入ったという。
そのおばが迎えに来てくれ、一緒に車に乗り込んだ。
運転するのはおばの息子、いとこのYである。

車の中では、病院のことが気になった。
私たちが行くまで果たして間に合うのだろうか?
正直来るときが来たという感じだった。

4時を目の前にして、病院に着いた。
病室には母、父の兄、その妻、姉がいて、一生懸命声をかけながら、みんなで手分けをしながら手足をさすっている。
父はもう変わり果てて一層、苦しそうになっていた。
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2006年02月08日

さようなら親父 -27-

朝。目が覚めた。

6時くらいだっただろうか。私は思えば昨日の昼食以来何も食べていなかったので、正確にはお腹が空いて起きた。

父は相変わらず寝ている。
今日はどういう日になるのだろうか。果たして…
などといろんな思いが駆け巡る。

家では母は眠れただろうか。母は安定剤がないと眠れないほどの状態になっている。
こちらも心配である。
私と交代するため、朝早くから家を出てくるのであろう。
私からの連絡がないことで一応落ち着いているのだろうと思った。
朝になっても、看護師の測る数値に変わりはなかった。

家族が起きる頃を見計らって電話を入れた。
一応母からは安堵の声が聞こえた。

それから、父の寝顔を見ながら、ペットボトルのお茶を飲み時間をやり過ごした。
9時半過ぎになり、母が来た。
父の寝顔を見るなり、少しほっとしたようだ。
前日からの経過や様子を報告して、私はいったん家に帰ることにした。
家に着くと妻と子供が留守番をしていた。私もほっとして眠かったが、久しぶりの食事をとった。

妻は忙しく家事をこなしていた。
母は半年ほど、家事もそこそこに父のことで精一杯だったらしく、家事というより家の片付けや整理、掃除を念入りに行わなければならなかったようだ。

少し早かったが、早い昼食をとった。
いつ何時、呼び出されるかわからない。
妻がこしらえてくれた昼食を急いで食べた。
昨夜も寝たような、寝れなかったような状態で非常に食事をしたら眠くなった。
風呂も入ってなかったが、少し寝たかったので横になった。
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2006年02月07日

さようなら親父 -26-

一連の作業を見守っていると、看護師から「休んでいてもかまいませんよ」と声をかけられた。
「大丈夫です。」と答えたが、私もいつしか眠くなってきた。
血圧も体温も変わりなしということで、特に実家や姉の方にも連絡は入れなかった。
日付が変わる頃になっただろうか。
私もうとうとしていた。
何とか看護師さんの検診の作業の音で目を覚ましたりしていた。
でも、立ち上がろうとせず、腰を下ろしたままだった。
何となく寝ているのが申し訳ないと思った。
父はぐっすり寝ていた。

記憶に有るのは2時頃に看護師が来たときだ。
眠い中で看護師から聞いた話だったが、父が大便をしたという。
実はその日2回目だった。
夕方みんなが帰ったあと、父が何か私に話しかけた。
すでに父はそのとき何を言っているのかわからない。
でもそのときは、小便か大便かというような視線を私に示した。
私はインターホンで看護師を呼んだ。
どうやら、オムツに大便をしたらしい。
看護師に大便をとってもらった。

で、夜中の2時ごろ再び父は大便をした。
この明けた日の夕刻に父は亡くなったのだが、そのときに立ち会った、父の実兄であるおじにこの話をしたところ、おじは冗談とも本当ともつかぬ口調でこう言った。

「人間は死ぬ直前にうんこするそうだ。『切な(せつな)グソ』って言うらしい。」

まさか、父の死後で悲しんでいるときなので、冗談ではないとも思ったが死んでいく人が大便をすること、それが切ない別れの大便だということで、何か真実味を感じた。
2度の「切なグソ」。
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2006年02月04日

仙声人語20060204

先週土曜日。父の四十九日法要。
はや父が亡くなって1ヵ月半。
亡くなってからも、主の亡くなった影響は大きかった。
銀行、生命保険、郵便局、証券、年金さまざまな相続処理が立ちふさがった。
母ももう若くはなく、そのようなことはすべて亡くなった父が今まで管理していたのでなにもできない。
私の妻が主導権を握って、処理を遂行してきた。
四十九日を境にして、やっと終わりが見えてきた。
見えてきたのもつかの間、今度は確定申告の声が聞こえてくる。
古い自家用車もマニュアルということで処分してしまった。
一人残された母はもちろん運転することはできないからだ。
残されたのは登記。
これも得体の知れないものだが、姉が処理の役を引き受けている。

さて、先週の四十九日。
私自身、四十九日自体への出席ももしかしたら初めてだったのかもしれない。
出席した記憶がない。
朝から家に親戚、父の懇意の人が詰め掛け、和尚さんを呼び、読経をあげる。
30分ほどで終わる。葬式や初七日ほど式次第があるわけではないので、喪主の私もどうしてよいかわからない。誰かからささやかれる指示に従って、簡単に挨拶を述べた。
今日来てくれた御礼とこれからの行動について。

そのあと近くの料理屋で会食。
こういう会食をお斎(とき)というらしい。
ここでも、司会がいるわけでもないので、まず私が挨拶。
父の病気の発見からの経過を一から話し、お礼を述べた。
そのあとはそのまま式進行を行い、親戚代表で父の兄からの挨拶、旧友から献杯の発声をお願いした。
それから食事。
料理もそこそこに、集まった方々にお酌に回る。
最後は母方の伯父より終辞をお願いして、閉会となった。

家族を亡くしたつらさもあるが、実際その後の処理で悲しんではいられないというのが実感である。
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2006年02月03日

さようなら親父 -25-

父は膀胱のがんであったため、手術後などひどいときには夜中に5,6度トイレにおきると言うことがあった。
それこそほとんど眠れずに、トイレだけのために眠れないということが続いた。
そういう、トイレに起きなければならないということが体と脳に染み付いてトラウマのようになり、無意識にトイレに起きなければならないという行動をとらせていた。

そのためこちらは、その必要はないんだということはわからせようと、体を張って制止していたのである。
尿はベッドに体を横たえたままでも、局部から管を伝って流れ出るようになっている。
この2日のうちからその管を通る尿の色が、どす黒い赤色になってきていた。
悪い兆候なのか?
いずれにしても確実に死期は近づいていた。

病院の消灯は21時半と聞いていた。
10分ほど遅れて病室の電気が自動的に消えた。病院全体がひっそりとしている。
枕もとの電気は自分で消すようになっているので、私が消さなければ当然父も消すことができないので、電気はついたままであった。
父も寝息を立ててぐっすり寝ていたので、消す必要もないと思い電気はそのままにしておいた。

約一時間ごとに看護師が来ることになっている。
そのたびに、血圧と体温を測り、床ずれしないように父の体の向きを変えることになっていた。
私も病院に泊まることになった以上、なるべく起きていようと努力して、設置されたベッドに横になりながらも、本を読んだり、手帳を眺めたりしながら時を過ごした。
やがて、看護師がやってきた。
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2006年02月02日

さようなら親父 -24-

日曜の夜、実家に電話をした。
母は「お父さん、あなたが来るかと待っていたよ」と言った。
私は本当に申し訳なく思い「来週は必ず行くから」と弁明した。

それから妻に父の危険な状態を告げた。
母も疲れがピークに達しているようだとも言った。
妻は、子供を連れて週末から年末までずっと、私の実家にいって母をバックアップしようと提案した。私も同意した。
子供が二人つくことになるので、いろいろと不便であるはずであろうが、家事くらいは何とかできるだろうということで、そういう決断を下した。
もう一度母に電話をした。
週末から実家に妻と子供を行かせて、家事をさせることを提案した。
母もどうしていいのかわからない感じであった。母は提案に遠慮し断った。
私は母の性格からして予想がついた。母は元来人一倍他の人に対して気を遣う人であった。その上、小さい子がついてくるというので、一人でそっとさせておいてほしいという気持ちもあったのかもしれない。
一応、様子を見て必要だったらヘルプを出してくれと言って了承した。

そして迎えた12月13日火曜日。
冒頭の さようなら親父 -1- へ戻る。

話を元に戻さねばならない。
さようなら親父 -15- の続きまで話を戻す。

病院に泊まることになった、12月16日金曜日の夜。
何を説明しようとして横道にそれたか?
父がなぜこの状態にもかかわらず、小便を自分でしようと起き上がろうとしたかを説明しようとしたからである。
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2006年02月01日

さようなら親父 -23-

退院後、定期健診で父は2週間に一度病院に行くことになっていた。
14日と30日あたりと決まっていた。
11月30日。一応私は心配していた。
会社が終わると、帰り道電話をした。
特に問題はなく、数値の方も正常値を示していた。
ただ、うわべの数値で肝臓がどうだ肺がどうだということはなく、普通の健康診断に近いものだったようだ。
一応胸をなでおろした。一応。

そして迎えた12月。
あと一月、無事に正月を迎えたいと毎日祈るようにしていた矢先の12月7日。
姉から会社のメールアドレスに携帯メールが入った。

“今日父は来週の検診が待ちきれず(足がむくんだり、だるかったりで)病院に行ったところ腎臓の機能低下と血小板の低下で再入院となりました。とりあえず報告まで。”

ひやっとした。
何かいやな気がする。
一度退院して再入院。
ただごとじゃない。

そんな感じがした。

心配していたものの、一時的なものだと祈っていたが、入ってくる報告は何しろ足がパンパンにむくんでいるというものであった。
週末12月10日11日。
この日、本当は病院にいくべきであった。
9日金曜日の帰り道、母から病院に来て父に顔を見せてあげてくれという催促だった。
しかし断った。
週末、自宅で年賀状用の写真をとり、一気に年賀状まで作ってしまおうという計画を立てていた。
しかし、結局それも無駄に終わり、年賀状などまだ作らず、病院に父を見舞っていたほうが、よかったということになる。ここでまた、病院に行けなかった後悔の念を持った。
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2006年01月31日

さようなら親父 -22-

私も一応は、嬉しくもあり安心して飲み会に出席したのだが、考えてみれば“つい最近危険な状態に陥っていたのに、そんなに簡単に退院できるものなのか”
“肺の影はなくなったらしいが、肝臓のことは触れられていない。いったい肝臓の方はどうなっているのか?”
という、気持ちが生まれてくる。

いづれにしても父は退院した。
その嬉しい気持ちは手に取るようにわかった。
会社の私のメールアドレスにも父の書いたメールが届いた。
短い文章であったが、趣味の俳句も添えられていた。

治癒祈り、点滴おわり、天高し。

これを、目にすると私は今でもぐっとこみ上げてくるものを感じる。
4ヶ月という長くつらい闘病生活の末に退院を果たした父の渾身の喜び。
それはそれは嬉しかったに違いない。

しかし、退院後の日々は日に日につらいものに変わっていった。
私は結局退院後も、実家に帰ることはなかった。それが最大の私の後悔である。
“元気になって退院したのだから、暮れに少し早めに帰省してゆっくり正月を迎えよう。
だから、とりあえず年末までは忙しいので、実家はいいか”
という思いでいた。
やはり病院と違い闘病生活の後遺症なのか、病魔が根付いていたせいなのか父はだるさがあったらしく、横になっている時間が多かったらしい。何となく想像がつく。
「外を散歩している」とメールで報告が来たのも思えば最初だけだった。

毎日の私の電話にも、すすんで出ようとはせず、ほんのたまにであった。
たとえ出たとしても、あまり明るいトーンではなかった。
母の話す父の様子も、あまりいいものではなかった。
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2006年01月30日

さようなら親父 -21-

10月後半、白血球の数値が著しく低下し、無菌の個室に移されたときがあった。
私はその頃はまったく病院に入っていないのだが、何か緊迫したものがあったという。
あとで主治医も、「非常に危なかった」と言ったそうだ。
家族に「危険な状態だ」と言おうともしたらしい。
ところが父は持ち直した。
父は非常に我慢強い。弱音を吐いたことを見た事がない。
愚痴めいたことは言ったこともあるが、そういう時は逆に少し余裕があるときだった。
そんな父が、非常に危険な状態だというのだから、つらかったに違いない。
父の我慢強い性格で持ち直したといっていいだろう。

私はほぼ毎日、帰り道に実家へ電話をした。
11月に入った4日、飲み会があるので、その前に病院に行った母に父の様子を確認しておこうと、早めに電話を入れた。
なんと、父が自宅の電話に出た。
私の電話だとわかり、びっくりさせようとしてでたことは間違いない。
どうやら、主治医の許可により、退院したらしい。
おどけたように妙に落ち着いた声で、話をした。
話す間にやはり、やはり嬉しさがこみ上げてきたようだ。退院になったいきさつを一部始終しゃべっていた。ちょっと、治療の関係で口内炎がでているとかで、しゃべりづらそうだった。
母もそのあと電話に出た。
母の心境はもちろん聞くことはできなかったが、おそらく嬉しさ半分、不安半分という気持ちだったであろう。父が退院したことで、父の体を気遣わなければならなくなったからである。
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2006年01月26日

さようなら親父 -20-

病院に顔を出すと、同室の人たちを気遣って、父も一緒に休憩所に付いてきた。
それほど父は元気がよさそうだった。いや、よかった。

父と次女との初の対面である。
父はやさしくまだ小さな下の子を抱いた。
上の子とは丁度半年ぶりである。
半年前の4月に妻が妊娠中なので、しばらく帰れなくなるということで、お墓参りがてら帰郷した。
思えばその頃から、父は具合が悪そうだった。
「横になっていれば楽だ」と言っていた。

父は次女とは初めて会った感じがしないようだった。
たびたび写真で見ていて、どれくらい大きくなっているのかが見当がついていたからである。
上の子は逆に久しぶりに会う父に怖そうな表情を見せ、差し出す父の手を避けるようにして、母親にしがみついた。
下の子はまだ、3ヶ月足らずなのに父に笑顔を見せた。
死を間近に控えたときと同じような表情だった。

子供と会わせて元気にさせた反動で、体力が弱くなるのを懸念して、私は時間を気にしていた。子供のほうも、東京からの長旅で疲れる頃であったため、短い時間のひと時であったが、私の実家に引き上げることにした。それでも父は十分に満足したようだった。父を病院に残して。

父は抗がん治療の間、体の中に流し込まれる抗がん剤による苦しみと戦っていた。時には白血球の値が下がり、白血病のような症状になったり、血小板の値も下がったりして、個室に隔離されるなどの処置をとっていた。
その間、母はひどく心配し「もうだめだ、もうだめだ」と言いながら、私に連絡してきた。
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2006年01月25日

さようなら親父 -19-

毎週のように孫(私の娘)の写真を印刷して、妻に手紙を書かせ、病院の父あてに送った。
病院でも看護師の間で評判になるほどだった。
父は嬉しそうに手紙と一緒に届いた写真を嬉しそうに、看護師の人たちに見せていたらしい。

やがて、7月の海の日に次女が産まれた。海の日は月曜日だったが、その前の土曜日に見舞いに行った。

「そろそろだよ」

と父には伝えた。
子供が生まれてからは、なかなか見舞いには行けなかった。
その次に行ったのは、大相撲の秋場所があった頃だから、9月の中旬くらいだった。

「10月に涼しくなったら、子供たちを見せに来るからそれまでがんばって。」

と話した。

父が入院の間母は、毎日のようにバスで病院に出かけていた。
真夏の暑い日も雨の日も。
母は自動車の免許がないので、バスでしか通えない。
バスで通うにはだいたい、1時間から1時間半くらいかかる。
直接家の近くから病院へ行くバスがない。
通常は一度甲府駅に出て、それから病院行きのバスに乗り換える。
そのバスも1時間に1本かそれ以下である。
バスで通うものにとってはもどかしくもあり、多大な疲れとなる。
そんな状況の中、ほとんど毎日母はよくぞ出かけたことかと思う。

姉も車を飛ばして、こちらもほとんど2日に一度あるいはそれ以上病院に通った。
四人の母親なのにである。
暇を見つけては父に会いに行った。
献身的な二人には本当に頭が下がる思いである。

やがて10月。
3連休。
新しく生まれた子供2人を連れ、家族で病院を見舞った。


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2006年01月24日

さようなら親父 -18-

「腫瘍が肺に転移している」
3人ともしばし沈黙。

聞いている3人とも唇が乾いている。
病院である父の顔を見ても乾いた口をパクパクさせながら顔を引きつらせていた。母も苦渋に満ちた顔だった。

その直後に母が私と姉に話したことは、実は母は主治医からすでに聞かされていたのだという。
しかも、おまけ付きで。

「肺と肝臓にまで転移している」

と。
母は主治医から耳打ちされていたが、当の本人には言えないでいた。

母は私と姉にそっと教えてくれた。
「父ちゃん、もうだめなのかな?」
と母は泣きそうな小さな声で言った。
「大丈夫だよ。そうと決まったわけじゃないし、治せるよ。」
言葉には自信がないものの、私はこう答えるしかなかった。

肺のがんは早期に発見すれば、直る確率が高いのだという。
ところが、肝臓はなかなか治すことができず、歳をとるとなかなか抗がん治療も効き目がないのだという。
その辺が不安だった。

肝臓への転移については父には知らされていなかったので、父は気持ちを切り替え、抗がん治療を行うことを決心していた。
1クール約1ヶ月を4クール行い、すべて終了するのに4ヶ月かかる。
気が遠くなるような試練に耐えなければならない。

抗がん治療の入院生活は6月末から開始された。
私は2週間に一度、病院に見舞いに出かけた。二人目の出産が近いので、たびたび見舞いに出かけることはできなかった。
仕事や趣味で山が好きだった父のために山の雑誌をみやげに買って行ったりして、父を勇気付けた。
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2006年01月21日

さようなら親父 -17-

何度も入退院を繰り返した、4年の間にも好きな国内旅行にも母と行っていたはずだ。
台湾から東京に私たち家族が帰ってきた一昨年の秋もすぐに社宅に遊びに来た。
出歩くのが好きな父だったが、いつでも、片時も自分の体のことを心配しながら楽しんでいたに違いない。どこかすっきりしないこともあっただろう。
でも、そんなことを母にでさえも洩らさなかったと思う。我慢強い父のことだから。

いつしか、膀胱の腫瘍が腎臓の方まで行っているということになった。
腎臓を一つ摘出することになった。そのときに腫瘍の根を張っているおおもとの膀胱までとってしまえば、あるいは助かっていたのかもしれない。

その代償として、人口の膀胱を備え付けられ、尿が備え付けの膀胱から処置する形となる。
局部意外は全然問題なく元気であったのに、膀胱をとられ人口のものを付けなければならないという選択は、父はしなかった。気持ちはわかる。
好きな旅行に仲間と行けなくなるし、行けても温泉には入りづらくなるだろう。割と体裁を気にする父だったので、自分の姿を想像する段階で、その選択は切り捨てられたであろう。そして、問題の膀胱はそのまま残ることになった。

そして去年6月。
病院に呼ばれた。
何やら、重要だということで会社に休みをとって私も東京から駆けつけた。

母と私、それから父が主治医の説明する部屋に入った。
ドラマで医者が患者に病状を説明をする場面と同じ感じで、主治医が1枚1枚父の診察した写真をカチッカチッと写真を上部のバーに投げ込みながら、淡々と説明する。
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2006年01月20日

さようなら親父 -16-

話は2001年にさかのぼる。
父は67歳。

私は会社の関係で一人台湾の台北市にいた。駐在である。
その5月結婚も控えていたその頃である。

たまたま、家にいた私はトイレの便器に血が付着していることに気がついた。
父のものだった。
病院にいき診断を受けると、父の膀胱に腫瘍があるとのこと。2,3日の入院が必要だった。
私の結婚式の前に2回ほど入院し、手術したのだろうか?
手術は尿道に管を通し、手術を行うもので男にとってみてみれば、耐え難い手術であると推測できる。

そのころは、私も台湾で連絡を待ち心配していたのだが、膀胱という部分的には隔離されているようなところで、がんが発生しても可愛いもので、転移も心配なくすぐ治るだろうという憶測でいた。

それが甘かった。
何度も手術で膀胱の腫瘍を取り除くものの、定期的に再発し、そのたびに父は病院から呼ばれ、一人で荷物を持って入院し、2,3日したら退院して帰宅するということを繰り返していた。実に去年の6月までに10回近く。そのたびに父は憂鬱になり、早くよくなればと願っていたに違いない。また家族をはじめ、まわりの人間も気を使っていた。好きなお酒もそれ以来、まるっきり飲まなくなった。
何をするにも、再発しないような手立てを考慮していたろう。

私が日本にいてたまたま、入院となったときもあった。
そのときは一緒に付き添ったこともあった。
何度も入院しているので、看護師さんとも仲良くなり、改めて説明を受けることもないほど、父は病院ではおなじみになっていた。
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2006年01月19日

さようなら親父 -15-


時間はゆっくりと過ぎていった。
病院の中も面会者もほとんどいなくなった。

当分父は寝ていそうな感じがしたので、休憩所にペットボトルのお茶を買いに行った。
病室内は、暖房を聞かせているためのどが渇く。
夕食はとれなかったにしても、水分は補給しておこうと思った。

昼間は面会者でにぎわう休憩所も電気はついていたもののテレビも消され、ひっそりとしていた。テレビをつけてボーっとした。細木さんのテレビだった。
普段は熱心に見入るのだが、このときばかりは内容が頭に入らない。

ふと、“こうしているうちに父にもしものことがあったら、泊まりの役目をおおせつかった私の立場はない”という思いに駆られた。定期的に看護士さんが見回りに来てくれるからいいかとも思ったが、病室へ戻った。
相変わらずむっとしている病室。

しばらくすると、看護士さんが来て、血圧と体温を測定しに来た。
相変わらず、血圧は上が80代後半、体温は平熱。
その結果を知って、自宅と姉に連絡。
電話だとびっくりすると思うので、もしものことがない限り、電話は夜はこれきりにしようと思った。

父は時折、苦しそうに顔をゆがめたりする。
「大丈夫?」と声をかけてやり、手足をさすってあげる。
また、小便を自分でしようと起き上がろうとしている。
本人も意識のあった頃からすでに、局部から管で垂れ流すような状態になっているにもかかわらずである。これにはわけがある。
それには父の病気がここまでなったいきさつについて話さなければいけない。
posted by センセイジンゴ at 10:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月18日

さようなら親父 -14-

それを聞いて私は、自宅と姉のところに電話を入れた。
母も姉も覚悟を決め、もしものときは夜中でも構わず電話をくれと私にお願いした。

気がつくと、時間は7時近くになっていた。
お腹が空いたのだが、売店はやっているのだろうか?
1階に行き売店のところへ行ったが、閉まっていた。
外は寒いし、出る気もしないので夕食はあきらめた。
仕方がないので、1階の大きいロビーの椅子に座り、ホットコーヒーを飲んだ。
「この病院にはあと何回くらいくるのだろう?」
「父はあと何日くらい実際のところ生きられるのだろう?」
「夜、私と二人だけのときに亡くなったらどうすればいいだろう?」
などと、暗いことばかり考えていた。

病室に戻っても、父は寝息を立てて寝ていた。
このままずっと眠り続けるのだろうか?
看護士は、前日の血圧が落ちて以来、毎時間父の血圧と体温を測りに来る。
血圧も落ち込んだままだが、90近く。体温も平熱だった。
その結果を報告しようと自宅と姉に電話を入れた。
母も姉も少し安心したようだった。

父はよく寝ているようである。
あとで思ったことだが、意識は遠のいているものの、この日私が泊まるということを父は理解し、意識の中にインプットされていたのではないかと思う。
それで、いつもとは違う安心感が生まれ、ぐっすり安心して眠っていたのではないかと思う。
自分でいうのもなんだが、父と私は会話の必要もないほど心が通じ合っていたと思う。
お互い無口な性格でもあり、全体的な性格が似ているのである。
posted by センセイジンゴ at 08:22| Comment(0) | TrackBack(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月17日

仙声人語20060117

今日1月17日。
父が亡くなって、早くも1ヶ月経った。
月命日というのだろう。

今の感想。
やっぱり何か、どこかに空洞が空けられた感じ。

去年の4月に撮った父が長女と一緒に写っている写真を
アルバムから引っ張り出して、写真立てを買ってきて部屋に飾った。
父もよく私たちが送った子供たちの写真を実家で同じようにしてくれていた。

お墓などに行っても、何をお祈りしていいのか、心の中で何をつぶやいていいのか困って手だけ合わせていたことが多かったが、父が亡くなってみると、言いたいこと、心の中で話すこと、報告すること、お願いすることが山ほどある。
やっぱり肉親なんだなと思う。と同時に、その最愛の人がいなくなったことを感じ、悲しさがこみ上げてくる。
posted by センセイジンゴ at 09:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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