2006年01月31日

さようなら親父 -22-

私も一応は、嬉しくもあり安心して飲み会に出席したのだが、考えてみれば“つい最近危険な状態に陥っていたのに、そんなに簡単に退院できるものなのか”
“肺の影はなくなったらしいが、肝臓のことは触れられていない。いったい肝臓の方はどうなっているのか?”
という、気持ちが生まれてくる。

いづれにしても父は退院した。
その嬉しい気持ちは手に取るようにわかった。
会社の私のメールアドレスにも父の書いたメールが届いた。
短い文章であったが、趣味の俳句も添えられていた。

治癒祈り、点滴おわり、天高し。

これを、目にすると私は今でもぐっとこみ上げてくるものを感じる。
4ヶ月という長くつらい闘病生活の末に退院を果たした父の渾身の喜び。
それはそれは嬉しかったに違いない。

しかし、退院後の日々は日に日につらいものに変わっていった。
私は結局退院後も、実家に帰ることはなかった。それが最大の私の後悔である。
“元気になって退院したのだから、暮れに少し早めに帰省してゆっくり正月を迎えよう。
だから、とりあえず年末までは忙しいので、実家はいいか”
という思いでいた。
やはり病院と違い闘病生活の後遺症なのか、病魔が根付いていたせいなのか父はだるさがあったらしく、横になっている時間が多かったらしい。何となく想像がつく。
「外を散歩している」とメールで報告が来たのも思えば最初だけだった。

毎日の私の電話にも、すすんで出ようとはせず、ほんのたまにであった。
たとえ出たとしても、あまり明るいトーンではなかった。
母の話す父の様子も、あまりいいものではなかった。
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2006年01月30日

さようなら親父 -21-

10月後半、白血球の数値が著しく低下し、無菌の個室に移されたときがあった。
私はその頃はまったく病院に入っていないのだが、何か緊迫したものがあったという。
あとで主治医も、「非常に危なかった」と言ったそうだ。
家族に「危険な状態だ」と言おうともしたらしい。
ところが父は持ち直した。
父は非常に我慢強い。弱音を吐いたことを見た事がない。
愚痴めいたことは言ったこともあるが、そういう時は逆に少し余裕があるときだった。
そんな父が、非常に危険な状態だというのだから、つらかったに違いない。
父の我慢強い性格で持ち直したといっていいだろう。

私はほぼ毎日、帰り道に実家へ電話をした。
11月に入った4日、飲み会があるので、その前に病院に行った母に父の様子を確認しておこうと、早めに電話を入れた。
なんと、父が自宅の電話に出た。
私の電話だとわかり、びっくりさせようとしてでたことは間違いない。
どうやら、主治医の許可により、退院したらしい。
おどけたように妙に落ち着いた声で、話をした。
話す間にやはり、やはり嬉しさがこみ上げてきたようだ。退院になったいきさつを一部始終しゃべっていた。ちょっと、治療の関係で口内炎がでているとかで、しゃべりづらそうだった。
母もそのあと電話に出た。
母の心境はもちろん聞くことはできなかったが、おそらく嬉しさ半分、不安半分という気持ちだったであろう。父が退院したことで、父の体を気遣わなければならなくなったからである。
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2006年01月26日

さようなら親父 -20-

病院に顔を出すと、同室の人たちを気遣って、父も一緒に休憩所に付いてきた。
それほど父は元気がよさそうだった。いや、よかった。

父と次女との初の対面である。
父はやさしくまだ小さな下の子を抱いた。
上の子とは丁度半年ぶりである。
半年前の4月に妻が妊娠中なので、しばらく帰れなくなるということで、お墓参りがてら帰郷した。
思えばその頃から、父は具合が悪そうだった。
「横になっていれば楽だ」と言っていた。

父は次女とは初めて会った感じがしないようだった。
たびたび写真で見ていて、どれくらい大きくなっているのかが見当がついていたからである。
上の子は逆に久しぶりに会う父に怖そうな表情を見せ、差し出す父の手を避けるようにして、母親にしがみついた。
下の子はまだ、3ヶ月足らずなのに父に笑顔を見せた。
死を間近に控えたときと同じような表情だった。

子供と会わせて元気にさせた反動で、体力が弱くなるのを懸念して、私は時間を気にしていた。子供のほうも、東京からの長旅で疲れる頃であったため、短い時間のひと時であったが、私の実家に引き上げることにした。それでも父は十分に満足したようだった。父を病院に残して。

父は抗がん治療の間、体の中に流し込まれる抗がん剤による苦しみと戦っていた。時には白血球の値が下がり、白血病のような症状になったり、血小板の値も下がったりして、個室に隔離されるなどの処置をとっていた。
その間、母はひどく心配し「もうだめだ、もうだめだ」と言いながら、私に連絡してきた。
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2006年01月25日

さようなら親父 -19-

毎週のように孫(私の娘)の写真を印刷して、妻に手紙を書かせ、病院の父あてに送った。
病院でも看護師の間で評判になるほどだった。
父は嬉しそうに手紙と一緒に届いた写真を嬉しそうに、看護師の人たちに見せていたらしい。

やがて、7月の海の日に次女が産まれた。海の日は月曜日だったが、その前の土曜日に見舞いに行った。

「そろそろだよ」

と父には伝えた。
子供が生まれてからは、なかなか見舞いには行けなかった。
その次に行ったのは、大相撲の秋場所があった頃だから、9月の中旬くらいだった。

「10月に涼しくなったら、子供たちを見せに来るからそれまでがんばって。」

と話した。

父が入院の間母は、毎日のようにバスで病院に出かけていた。
真夏の暑い日も雨の日も。
母は自動車の免許がないので、バスでしか通えない。
バスで通うにはだいたい、1時間から1時間半くらいかかる。
直接家の近くから病院へ行くバスがない。
通常は一度甲府駅に出て、それから病院行きのバスに乗り換える。
そのバスも1時間に1本かそれ以下である。
バスで通うものにとってはもどかしくもあり、多大な疲れとなる。
そんな状況の中、ほとんど毎日母はよくぞ出かけたことかと思う。

姉も車を飛ばして、こちらもほとんど2日に一度あるいはそれ以上病院に通った。
四人の母親なのにである。
暇を見つけては父に会いに行った。
献身的な二人には本当に頭が下がる思いである。

やがて10月。
3連休。
新しく生まれた子供2人を連れ、家族で病院を見舞った。


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2006年01月24日

さようなら親父 -18-

「腫瘍が肺に転移している」
3人ともしばし沈黙。

聞いている3人とも唇が乾いている。
病院である父の顔を見ても乾いた口をパクパクさせながら顔を引きつらせていた。母も苦渋に満ちた顔だった。

その直後に母が私と姉に話したことは、実は母は主治医からすでに聞かされていたのだという。
しかも、おまけ付きで。

「肺と肝臓にまで転移している」

と。
母は主治医から耳打ちされていたが、当の本人には言えないでいた。

母は私と姉にそっと教えてくれた。
「父ちゃん、もうだめなのかな?」
と母は泣きそうな小さな声で言った。
「大丈夫だよ。そうと決まったわけじゃないし、治せるよ。」
言葉には自信がないものの、私はこう答えるしかなかった。

肺のがんは早期に発見すれば、直る確率が高いのだという。
ところが、肝臓はなかなか治すことができず、歳をとるとなかなか抗がん治療も効き目がないのだという。
その辺が不安だった。

肝臓への転移については父には知らされていなかったので、父は気持ちを切り替え、抗がん治療を行うことを決心していた。
1クール約1ヶ月を4クール行い、すべて終了するのに4ヶ月かかる。
気が遠くなるような試練に耐えなければならない。

抗がん治療の入院生活は6月末から開始された。
私は2週間に一度、病院に見舞いに出かけた。二人目の出産が近いので、たびたび見舞いに出かけることはできなかった。
仕事や趣味で山が好きだった父のために山の雑誌をみやげに買って行ったりして、父を勇気付けた。
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2006年01月21日

さようなら親父 -17-

何度も入退院を繰り返した、4年の間にも好きな国内旅行にも母と行っていたはずだ。
台湾から東京に私たち家族が帰ってきた一昨年の秋もすぐに社宅に遊びに来た。
出歩くのが好きな父だったが、いつでも、片時も自分の体のことを心配しながら楽しんでいたに違いない。どこかすっきりしないこともあっただろう。
でも、そんなことを母にでさえも洩らさなかったと思う。我慢強い父のことだから。

いつしか、膀胱の腫瘍が腎臓の方まで行っているということになった。
腎臓を一つ摘出することになった。そのときに腫瘍の根を張っているおおもとの膀胱までとってしまえば、あるいは助かっていたのかもしれない。

その代償として、人口の膀胱を備え付けられ、尿が備え付けの膀胱から処置する形となる。
局部意外は全然問題なく元気であったのに、膀胱をとられ人口のものを付けなければならないという選択は、父はしなかった。気持ちはわかる。
好きな旅行に仲間と行けなくなるし、行けても温泉には入りづらくなるだろう。割と体裁を気にする父だったので、自分の姿を想像する段階で、その選択は切り捨てられたであろう。そして、問題の膀胱はそのまま残ることになった。

そして去年6月。
病院に呼ばれた。
何やら、重要だということで会社に休みをとって私も東京から駆けつけた。

母と私、それから父が主治医の説明する部屋に入った。
ドラマで医者が患者に病状を説明をする場面と同じ感じで、主治医が1枚1枚父の診察した写真をカチッカチッと写真を上部のバーに投げ込みながら、淡々と説明する。
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2006年01月20日

さようなら親父 -16-

話は2001年にさかのぼる。
父は67歳。

私は会社の関係で一人台湾の台北市にいた。駐在である。
その5月結婚も控えていたその頃である。

たまたま、家にいた私はトイレの便器に血が付着していることに気がついた。
父のものだった。
病院にいき診断を受けると、父の膀胱に腫瘍があるとのこと。2,3日の入院が必要だった。
私の結婚式の前に2回ほど入院し、手術したのだろうか?
手術は尿道に管を通し、手術を行うもので男にとってみてみれば、耐え難い手術であると推測できる。

そのころは、私も台湾で連絡を待ち心配していたのだが、膀胱という部分的には隔離されているようなところで、がんが発生しても可愛いもので、転移も心配なくすぐ治るだろうという憶測でいた。

それが甘かった。
何度も手術で膀胱の腫瘍を取り除くものの、定期的に再発し、そのたびに父は病院から呼ばれ、一人で荷物を持って入院し、2,3日したら退院して帰宅するということを繰り返していた。実に去年の6月までに10回近く。そのたびに父は憂鬱になり、早くよくなればと願っていたに違いない。また家族をはじめ、まわりの人間も気を使っていた。好きなお酒もそれ以来、まるっきり飲まなくなった。
何をするにも、再発しないような手立てを考慮していたろう。

私が日本にいてたまたま、入院となったときもあった。
そのときは一緒に付き添ったこともあった。
何度も入院しているので、看護師さんとも仲良くなり、改めて説明を受けることもないほど、父は病院ではおなじみになっていた。
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2006年01月19日

さようなら親父 -15-


時間はゆっくりと過ぎていった。
病院の中も面会者もほとんどいなくなった。

当分父は寝ていそうな感じがしたので、休憩所にペットボトルのお茶を買いに行った。
病室内は、暖房を聞かせているためのどが渇く。
夕食はとれなかったにしても、水分は補給しておこうと思った。

昼間は面会者でにぎわう休憩所も電気はついていたもののテレビも消され、ひっそりとしていた。テレビをつけてボーっとした。細木さんのテレビだった。
普段は熱心に見入るのだが、このときばかりは内容が頭に入らない。

ふと、“こうしているうちに父にもしものことがあったら、泊まりの役目をおおせつかった私の立場はない”という思いに駆られた。定期的に看護士さんが見回りに来てくれるからいいかとも思ったが、病室へ戻った。
相変わらずむっとしている病室。

しばらくすると、看護士さんが来て、血圧と体温を測定しに来た。
相変わらず、血圧は上が80代後半、体温は平熱。
その結果を知って、自宅と姉に連絡。
電話だとびっくりすると思うので、もしものことがない限り、電話は夜はこれきりにしようと思った。

父は時折、苦しそうに顔をゆがめたりする。
「大丈夫?」と声をかけてやり、手足をさすってあげる。
また、小便を自分でしようと起き上がろうとしている。
本人も意識のあった頃からすでに、局部から管で垂れ流すような状態になっているにもかかわらずである。これにはわけがある。
それには父の病気がここまでなったいきさつについて話さなければいけない。
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2006年01月18日

さようなら親父 -14-

それを聞いて私は、自宅と姉のところに電話を入れた。
母も姉も覚悟を決め、もしものときは夜中でも構わず電話をくれと私にお願いした。

気がつくと、時間は7時近くになっていた。
お腹が空いたのだが、売店はやっているのだろうか?
1階に行き売店のところへ行ったが、閉まっていた。
外は寒いし、出る気もしないので夕食はあきらめた。
仕方がないので、1階の大きいロビーの椅子に座り、ホットコーヒーを飲んだ。
「この病院にはあと何回くらいくるのだろう?」
「父はあと何日くらい実際のところ生きられるのだろう?」
「夜、私と二人だけのときに亡くなったらどうすればいいだろう?」
などと、暗いことばかり考えていた。

病室に戻っても、父は寝息を立てて寝ていた。
このままずっと眠り続けるのだろうか?
看護士は、前日の血圧が落ちて以来、毎時間父の血圧と体温を測りに来る。
血圧も落ち込んだままだが、90近く。体温も平熱だった。
その結果を報告しようと自宅と姉に電話を入れた。
母も姉も少し安心したようだった。

父はよく寝ているようである。
あとで思ったことだが、意識は遠のいているものの、この日私が泊まるということを父は理解し、意識の中にインプットされていたのではないかと思う。
それで、いつもとは違う安心感が生まれ、ぐっすり安心して眠っていたのではないかと思う。
自分でいうのもなんだが、父と私は会話の必要もないほど心が通じ合っていたと思う。
お互い無口な性格でもあり、全体的な性格が似ているのである。
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2006年01月17日

仙声人語20060117

今日1月17日。
父が亡くなって、早くも1ヶ月経った。
月命日というのだろう。

今の感想。
やっぱり何か、どこかに空洞が空けられた感じ。

去年の4月に撮った父が長女と一緒に写っている写真を
アルバムから引っ張り出して、写真立てを買ってきて部屋に飾った。
父もよく私たちが送った子供たちの写真を実家で同じようにしてくれていた。

お墓などに行っても、何をお祈りしていいのか、心の中で何をつぶやいていいのか困って手だけ合わせていたことが多かったが、父が亡くなってみると、言いたいこと、心の中で話すこと、報告すること、お願いすることが山ほどある。
やっぱり肉親なんだなと思う。と同時に、その最愛の人がいなくなったことを感じ、悲しさがこみ上げてくる。
posted by センセイジンゴ at 09:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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