2006年01月17日

さようなら親父 -13-

父はひたすら寝ていた。
もう息が止まっているのか?と心配するようなことはなかった。
元気なときと同じように、父はいびきをかいていた。
そのいびきだけ耳をすましていると、普段の父なのだが、顔色はすでに黄ばんで見えた。
これが黄だんというものなのか?
私は特にすることもなかったので、病院のお手伝いのような人が、運び入れてくれた簡易ベッドに座り、父をぼんやり眺めていたり、手や体をさすってあげていた。

父は時折、体を替えようとする。
体の左側を上にするか、右側を上にするか。
上にするほうには、高くするために枕が挿入されている。1時間に1度くらい二人ほど看護士さんが来て、それを変えに来てくれる。父は昭和一桁の生まれだが170センチを超えるので、女性看護士二人だけでは大変である。たまに私が手伝った。

そのうち主治医の先生が来た。
親戚の人や家族はこの主治医に対して、不信感を抱いていた。
なぜ、中途半端な状態で退院させたのか?
父を何度も入院させて、つらい思いをさせて、最後はこの有様とはどういうことだ?
など、文句の一つもぶつけたいほどであった。

主治医は私に言った。話をするのはこれで2回目だ。
主治医は母に言うと母はひどく狼狽すると思うので、私に言うのだろう。
『昨日から血圧が落ちて今は90くらいだが、これから朝方にかけて50くらいに落ちることも考えられる。そうなるとこん睡状態になり、最後になるかもしれません』
はっきりとした内容は覚えていないがそのような内容だったと思う。
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2006年01月16日

さようなら親父 -12-

一方上のこの方は、すでに2歳の後半で、ある程度のことは察しがついているようで、父の恍惚とした表情におびえ、私にしがみついて歩み寄ろうとはしなかった。

私は、上の子は仕方ないにしても、次女が父に笑顔を見せ、父の手に触ろうとしたことだけでも、ここに最後に連れてこさせる甲斐があったと思った。
やがて、子供や妻たちも帰っていった。

しばらくして、姉夫婦も子供たちを連れてやってきた。
姉の子は女の子4人である。中学1年の子を先頭に一番下が3歳である。
父親(姉の夫)に促され、一人ひとり父に声をかけるように言う。

私の子達とは違い、普段から実家に遊びに行っているため、父も自分の子供のようであったはずである。
特に一番上の子は一番長い間おじいちゃんになついているため、ぐっと来るものがあったのだろう、涙をこらえきれないで流していた。
それに引き換え一番下のことはあまり状況を飲み込んでいないようであった。

身近な人が次から次へと病院に来てくれたことで、本当に死というものを迎えているのだなという感じがした。病院に来てくれる目的が、お見舞いではないのだ。
最後の面会なのである。

やがて、姉夫婦一家も帰り、病室に母と私と父が残された。
私は泊まるつもりでいたから、帰る時間は気にならなかった。
母には、今日は自分が付いているから早く帰って休むよう促した。

そして母は後ろ髪をひかれるようにして、帰って行った。
長い病院の宿泊時間が始まった。
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2006年01月15日

さようなら親父 -11-

父は先日よりオムツをしていた。
それまでは、やはり下の世話をされるのを嫌がり、大便は看護士さんに便器を運んできてもらい、用を足してきた。
そのうち夜中にしたくなり、看護士を呼ばずに便器のところに行き、用を足したが立ち上がれなくなって、便器の上に座ったまま身動きが取れなくなったらしい。真夜中のことだ。看護士さんは、夜中に1時間から2時間ごとに見回りに来てくれていたので、そこで初めて気づいたというわけだ。
なんだか父の性格が出ていることが実感できたが、本人はさぞかし大変だったと思う。
それ以来、看護士は家族の方に泊まってもらうよう促してきたようだ。

3時過ぎになって、妻と二人の子が舅に連れられてやって来た。
これがおじいちゃんと最後というつもりらしい。
父はお客さんが病室に入ってくると、元気な顔を見せようとがんばった。このときもそうだ。

驚くべきことに、一番反応を見せたのは7月に生まれたばかりの次女を近くにして顔を見せたときである。
かすかに「藍(次女の名前)か?」という口をした。
それまでふさぎがちだった目を見開いた。
次女も次女で怖がると思っていたら、なんとおじいちゃんの差し出した手に手を伸ばした。
そして二人は最後の握手をした。

次女と父は会うのが2回目である。
次女が生まれそれから毎週のように病室の父にデジカメ写真をプリントアウトして送ってきた。父にしてみたら、何回もあっているような感覚でいたのかもしれない。
さらに、次女は丸顔で父に似ている。酉年の六星占術でいうところの天王星人である。何かお互いひきつけあうものがあったのだろうか?
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2006年01月14日

さようなら親父 -10-

母の妹夫婦も来た。
休憩所ではお葬式の話となった。
どこどこでお葬式を挙げればよいだとか、戒名はどうすればよい、お坊さんは誰などである。
葬式の式次第や挨拶をもらう人などをあらかじめ決めておいた方がいいなどという。
周りの人たちが気になるものの、母の妹夫婦は4年前に自分達の次男を亡くしている経験を生かして熱心に話してくれる。
いよいよ、葬式が近くなることを実感する。悲しんでなどいられないという感じにさせられる。
やがて、母の妹夫婦も帰り、暗くなる前に私も帰ることにした。
母はまたまだ父が気になるというので、別々に帰ることにした。

その日、母はまた遅く帰ってきた。
夕食時、母は「看護士さんから泊まる人がいた方がいい」と言われたらしい。
明日は、泊まる人が必要になった。当然私が手を上げるしかない。
“明日は泊まる覚悟だ”と腹を決めた。
「明日はもしかしたら、父の最期となるかもしれない。今まで何もできなかった自分が、最後に父と夜を共にする。もう、亡くなるその時まで一緒にいるつもりだ。」と心に決めた。
母と交代で泊まりは私、母は昼に行韻に張り付くという体制となった。

16日。
朝病院より父の血圧が90くらいに低下しているという連絡が入った。
急いで病院に向かう準備をした。もちろん病院に泊まる覚悟で家を出た。
もう今日が最後かもしれない、そんな気持ちもあった。
姉もかけつけた。
血圧は低下したが父はだいぶ落ち着いている。
ぐっすり寝ていた。もうこのまま目を開いてくれないのかという感じだった。


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2006年01月13日

さようなら親父 -9-

父の衰えはだいぶ進んでいた。
さらに表情がなくなっていた。
前日には少しは会話になる声を出していたが、この日はもう全くだった。
「今日もまた来たよ」と声をかけてもあまり反応がない。
もう、平日に息子が面会に来てもおかしいと思わないのか、頭は働いていても反応できないのか?

この日は父の兄夫婦と父の妹が来た。つい先日まで元気だった姿を見ている人たちだけに、父の変わり果てた姿にショックを受けて、「元気出して」と声をかけるものの、女性二人はやはり涙を流していた。

思うに私は父とこのとき以前に顔をあわせたのは、次女が夏に生まれて、気候が良くなったからと10月上旬に見せに来て以来、ちょうど2ヶ月ぶりだった。
山梨にいる親戚の人たちは、割と機会を見てお見舞いに行ってくれていたので、私なんかよりずっと父の様子には詳しかったに違いない。
私など父が退院していた11月の間は忙しいと言いつつ、結局一度も実家に帰ることはなかった。そのことが一番の後悔である。
生まれたばかりの子がいて、勘弁してもらっていたのだが、何とかなったはずだ。

人一倍子煩悩で、子供たちには自身のそばにいて欲しいと心の中で強く思っていたに違いない父だけに、父に対する気持ちは、亡くなってから申し訳ない気持ちでいっぱいである。
父が入院中も退院後も実家には毎日電話をしていたから、父の状態については逐一把握していたつもりだ。ただ、表情や姿は見ていなかっただけに、最近まで元気な姿を見ていた人たちほどの落胆差は私にはなかった。
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2006年01月12日

さようなら親父 -8-

母は、看護師から泊まるのを促すような言い方をされたとかで、もう少し様子を見るため病院に残ると。
病室を出る私、それを見送る悲しそうな目の母。
その姿が忘れられない。
どんなにそばにいてあげたいと思ったことか。

その日はちょうど会社から帰るくらいの時間の6時過ぎに東京の自宅に着いた。
疲れは会社で働く以上にあった。特急に乗って甲府を一日で往復するのも疲れる。父のことを考えてしまうとなおさらだった。

家ではすでに妻が山梨に送る荷物、手荷物を着々と準備していた。
上の子は明日は電車に乗るんだと無邪気にはしゃいでいた。こんなことが自分の気持ちを癒してくれる。
でもこのとき妻にはまだ、『2週間の命』を伝えていない。自分の腹にためていた。
なかなか言う気になれない。
私のため息や暗い疲れた表情で察してくれていたのだろうか?
その日は早く床についた。

翌14日。
朝早く会社に電話をした。今後会社を長く休むだろうことを伝えるため、『2週間の命』を思い切って伝えた。妻に聞こえないところで。
山梨へ送る荷物の集荷受取を社宅の隣のYさんにお願いして出発。午後実家に到着。
母は病院へ行っていた。

夕方は妻が夕食を作って母の帰りを待った。
母は疲れた様子で帰ってくるが、何もしないで食事ができることと孫たちの顔を見て小さく喜んでいた。
しかし本人もかなり疲れているに違いなかった。

15日。
母は朝から病院へ。
妻は6ヶ月間の父の見舞いでぐちゃぐちゃになりつつあった台所の整理。
私は買い物など足回りを担当し、午後から病院へ向かった。
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2006年01月11日

さようなら親父 -7-

姉婿Yは「出張でたまたま来たって言えばいい」とのんきなことを言う。
それはできない。
今までそんなことはなかったのだから。

Y「いずれにしても、肝機能と腎臓機能がかなり低下しているから、そのうちこん睡状態になるようだから、話せるうちに話しておいたほうがいい」
医者の話を冷静に聞けたのは3人のうちYだけだったようだ。
あとの2人はショックで途中から耳にないっていなかったようだ。

腹を決めて、全員で病室に向かった。
父の意識はあった。でも以前と比べて私を目にした反応は鈍かった。
「一瞬何でいる?」というような顔をしたが、表情はそれきり固まった。

私「病室を個室にうつされたって聞いたもんだから、呼び出されちゃって来たよ。でも元気そうじゃん。」
と、まあ妥当だと思う言い訳を言った。

父はなんと答えたかは覚えていない。
多分何も答えなかったと思う。
それくらい元気がない感じがした。
当然息子にあえて嬉しい表現はもちろん、笑顔もなかった。

時間はおよそ3時ころ。病院についてすでに1時間以上経過していた。
まもなくして父は眠りについた。

また休憩所に移動して、今後の話などした。
私は東京の自宅に電話をした。明日中に山梨の実家に移動できる指示を出すためだ。
「あと2週間」という言葉は電話の会話にしては強烈なのであえて口にしなかったが、妻はそのとき覚悟したようだ。

再度病室に戻り、父の顔を見て姉夫婦が帰るのを見届けて、私も東京の自宅に帰ることにした。
posted by センセイジンゴ at 16:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月10日

さようなら親父 -6-

それから、義兄のYも休憩所に来た。
姉と母と義兄の3人で医者からの話を聞いたらしい。
6月にがんが肺と肝臓に転移しているといわれ、それから4ヶ月間父は抗がん治療をしてきた。肺はきれいになったと、11月4日退院した。
本人や母は喜んでいたが、私は何かひっかるものがあった。
「肝臓はどうなったの?」という思いだ。
肝臓はなかなかがんが消えにくい臓器だといわれる。肺が治ったのはわかったし、ありがたかったが、肝臓は消えていないはずなのに、退院させてもいいものかと思っていた。

そこにきて12月7日。
父は腎臓機能まで低下しており、下半身とくに足がむくんで立つこともやっとな状態になり、12月14日の定期健診も待ちきれずに病院へ行き、そのまま入院となってしまった。

この日の先生の話では、腎臓と肝機能が著しく低下しており、治療をしても2週間しか命が持たないという。
いろんなことが私の頭の中を交錯し始めた。
お葬式はいつごろになり、どこで行い…、など、父がまだ生きているのにである。
休憩所で4人で話し合う話も次第にそのような話に向けられていく。周りの人に聞かれないようにひそひそ話をしているはずが、声が大きくなっていく。

私もまだこの日病院に来たのに父に会っていない、なんだか父に会うのがつらくなってきた。どんな顔をして会ったらいいのだろうという思いだ。
テレビドラマで見る、亡くなっていく人に対して涙をこらえて元気づけたりするのだろうか?あるいは思わず号泣してしまうのだろうか?それが不安だった。

(今回から600字をメドにしました)
posted by センセイジンゴ at 11:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月09日

さようなら親父 -5-

「とうちゃんの様子は?意識とかはっきりしているの?」
「普段と変わらないけど、つらそう。起きるのもやっとって感じ。」
私は「もっても、あと2週間」と言われたことですべてを飲み込んだが、逆に父の意識がはっきりしているのであれば、どんな顔をして父に会ったらいいのだろうと逆に困惑してしまった。勘のいい父のことだから、普段顔を出さない息子が会社のある平日に、病院に来るという事態を敏感に悟ってしまうのではないかということが心配になった。

姉は母を病室に呼びに行った。
戻ってきた母は、およそ2ヶ月ぶりに会ったが、疲れて痩せた感じだった。
息子を見て少し安心したようだったが、やはり医者から伝えられた言葉にショックと落胆でいっぱいのようだった。
posted by センセイジンゴ at 15:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月08日

仙声人語20060108

細木流。

うちの奥さんは、生粋の細木信者。
細木数子のテレビ番組はもちろん彼女の本は端から読んでいる。
今も本を読み、父の墓石のことでああでもないこうでもないと言っている。

そう、父が亡くなり我が家では父が初めての故人となったため、墓の建設が必要なのである。そこで墓の建設には細木流にいうと、石の色は白が良くて…、どういう文字を入れたらよくて…などという話である。
嫁に来ている身で実に熱心である。

本の中に“相談したい方は本の中に連絡先が書いてあるので連絡してください”との記事があるため、真剣に相談しようか言い出している始末。
当家の長男としてはどうしたものか…?なのだが、任せておいていいものか?
考え物である。
posted by センセイジンゴ at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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